精神的孤立感

心の風景

精神的孤立感

 「影響力の武器」(チアルディーニ著 誠信書房刊)という著名な、古い本がある。

 その中で、朝鮮戦争の折、中国軍の捕虜となったアメリカの軍人が、いとも簡単にコミュニストになったことが報告されている。古くて新しい洗脳のテクニックの問題は、結局、物語なしに生きることが殆ど困難な私たち人間心理の奥深い闇の部分を照射せざるを得ないのだ。

 これは、新興宗教での過激なマインド・コントロールの事例によって既に周知であるが、刑事事件の容疑者として、取調室で刑事と対峙するような状況でも類似の心理の発生が充分に考えられる。この心理は、ある種の極限状況下での産物と言っていい。

 見覚えのない、限られた空間の中に、寄る辺のない一個の自我が置き去りにされている。その自我の周囲には、敵対的な自我が圧倒的に囲繞している。この閉塞感は決定的である。
 際限なく続く負性の状況が寄る辺なき自我を甚振り、いつまでも弄(もてあそ)んでいくかのようである。どこにも助けを求められず、何ものも乞えず、声も上げられず、律動も刻めず、プールされた感情の排出口も全く見当たらないのだ。

 精神的孤立感がピークに達したとき、思いがけないストローク(注)が、測ったようにそこに投げ入れられた。敵対的だと信じて止まなかった相手が、突然柔和になって、寄る辺なき自我を優しく包み込んできた。それは計算された甘言であるに違いなかったが、孤立を極めた向うに待っていたかのような、おどろおどろしい未知の恐怖に拉致されかかった寒々とした自我には、もうそれでも良かったのだ。

 逃げ場をもてない状況の中で、ソフトな語り口が寄る辺なき自我を吸引する。その語りの内実もまた、未知の恐怖の匂いを届けてきたが、空洞を広げた自我はそれをすかさず解毒した。

 やがて、その怪しき語り口から胡散臭さが消えて、代わりに魔性の香りが仄かに漂ってきた。その香りが寄る辺なき自我を包み込んでいく。自我はただ抜け出したかったのだ。寄る辺なさの感情さえ中和されれば、何でも良かったのだ。「脱出願望」と「共有願望」という、一見矛盾した感情がそこに繋がって、一気に集合を果たした者のパワーに転化したのである。

 恐らく、あらゆる自我は極限的に深まっていくだけの孤立感になかなか耐え切れるものではない。時間の向うに曙光が微かにでも捉えられるなら、それを拠り所に、自我は律動を刻むことができるだろう。
そこに、何もないから辛いのだ。

 この辛さは、破綻しかかった物語が補正を受けられないでいる辛さである。この物語に全く異質な物語が喰いついてきたら、辛さに震える自我は、もう喰いつかれるままになってしまうかも知れない。遍く私たちの自我は、物語の一定の共有領域を手に入れて、それを確かめずにはいられないようである。

 精神的孤立感からの脱出と、物語の共有願望が一元的に達成する奇跡なる輝きを、寄る辺なき自我が半睡の中で謳い上げるとき、私たちの世界の、古くて新しい魂の劇的な転位がそこに放たれる。
 洗脳の奥深い澱みには、底なしの孤立感の、その名状し難い重苦しさがあるのだ。その出口の見えない重苦しさが、今まで出会ったこともなかったような異界の物語に吸い込まれていくことで、目立って軽快に振れていくのである。

 捨てて、捨てて、踏み入れられて、抱かれてようやく手に入れた魂の安寧。
 そこに共有幻想が完結した。寄る辺なき自我は、もうゆっくり眠れるのだ。耐え難き淋しさはここにはないのだ。

(注)心理学で使われるストロークには、幾種類もある。ここでは、「肯定的なストローク」と「否定的なストローク」について例示すれば、前者は、相手の人格を肯定的に認知して称賛するというスタンスであるのに対して、後者は、その逆の態度を持って接するスタンスであると言える。(筆者注)

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