集団スリーピング

心の風景

集団スリーピング

 世の中に危機が目前に迫っているのに、一向にそれに対処しない人がいる。

 洪水が足元にまで及んでいるのに、まだ大丈夫だと考える人の発想を支配しているのは、決して単純な楽天思考ではない。

 かの人々は、地元の河川の氾濫で町に水が溢れても、「我が家は大丈夫である」と考える。その我が家が床下浸水にあっても、「畳の上は大丈夫」と考え、その畳の上まで水が溢れても、「二階に避難すれば安全である」と考える。遂に二階の高さまで洪水が及んでも、「屋根に逃げれば安全だ」と考えた挙句、そっくり我が家が流されて、そこで初めて、「助けてくれ!」と叫んでも、周囲に誰もいない。何も見えない。何も届かない。もう何も変えられないのである。

 自然だけが動いている。その自然に呑み込まれて、動くべきときに、動くことをしなかった自分が今、行方も知らず、ただ自然の律動によって動かされているのだ。

 古い話だが、1999年の夏に、丹沢玄倉(くろくら)川の中州で起ったファミリー・キャンパーたちの遭難事故(注1)の報を、メディアを通じて知ったとき、私の脳裏によぎったのは、以上の戯画的に誇張された心理学的文脈だった。

 何回かの避難勧告を無視して中州に居座った人々の遭難を人災と捉えて、その軽薄なアウトドア感覚と、自然の脅威への無知からくる楽天思考の甘さを指摘する声が多かった。その把握に誤りがないが、何かが足りない。その甘さの奥にあるものがとても気になるのである。

 この事件の一件に思案を巡らせていて、私が思い出したのは、ナチスの脅威が迫っているのに、安全圏に脱出を図らないユダヤ人が多かったという事実である。彼らの非行動は、必ずしも、虎の子の財産を惜しんだためとは言い切れないケースが多かった。

 当時、ナチスの意図をほぼ正確に見抜いていたインテリ層の中に、危機脱出に緩慢だったユダヤ人がいたこと(1938年10月9日、ユダヤ人の商店などがナチス突撃隊に襲われた「水晶の夜」を経験したことで、国外亡命するユダヤ人が急増したと言われる)は、楽天思考の壁という見方が、案外、事態の本質を説明しないことを如実に示しているのである。

 彼らの非合理的精神の根にあるものを、心理学では「スリーピング現象」と呼んでいる。

 「心配性の心理学」(根本橘夫)著 講談社現代新書)という本によると、人の心が最も安らぐ方法は、その心そのものを消失させることであり、理論的には、自我意識の水準の低下によって、様々な不快な事態に対処するスキルを身につけることが容易になるということだ。

 例えば、叱られた子供が早く眠ってしまうという「リバウンド現象」(注2)には、叱られたことを早く忘れたという心理機制が働いていて、スリーピングの代表例とも言えるものである。

 危険が大きいほど、ある種の人々は「スリーピング」に潜り込む。潜り込むことで、危機のリアリティを中和するのである。敢えて意識水準を低下させることで、そこに危機は発生していないと思い込もうとする。危機が我が身に迫って来ても、まだ自分は安全圏にいると信じ込もうとするから、自分に好都合な情報のみをコレクトするしかないのだ。そこには危機意識の掏り替えがある。初めから危機意識とは無頓着な楽天思考とは、微妙に隔たっていることが分るのである。

 玄倉川の人々には、以上の文脈の他に、集団心理が働いていた。スリーパーは決して危機を開示しない。寧ろ、危機否定の発言が集団内にあったと考えられる。他者を安心させる発言が好意的に受容してもらえるという空気の中で、内なる危機感を払拭しようとする流れが、そこに定まったのである。恐らく、単独であるとか、一家族単位のキャンパーであれば、安全防御に対する自然な感情にもっと従順になれたはずだった。

 妻がいて、我が子がいて、そこにクロスし合う視線があった。複雑に絡み合う視線を強気で束ねる危機否定の発言が、それが待望される不安心理を、そんな状況の中で丸ごと吸収していったのではなかったろうか。

 「集団スリーピング」が極まったとき、人々は動けなくなった。そして、運命の朝を迎えてしまったのだ。人々の身体はほぼ覚醒しつつも、その精神は半眠状態だったのである。人々は愚かだったのではない。少しばかり、勇気がなかっただけである。

 覚醒すべきときに、自我をきっぱりと開いていく訓練というのもまた、どうやら私たちには不可欠のようである。

(注1)東日本を襲った熱帯低気圧によって各地で大雨になり、神奈川県山北町を流れる玄倉川の中州で、ファミリー・キャンプ中だった18人が取り残され、結果的に14人が濁流に呑み込まれ、行方不明になったという大惨事。(筆者注)

(注2)医療分野で通常、ステロイド剤などの多用を突然停止したときに、体に異変が生じて、生命に関わる危機に陥るとも限らない現象などを言うが、そればかりか、近年、美容の分野で、落ちた体重が再び太ってしまったりするような現象を意味する解釈も可能である。ここでは単に、心理学的な説明で使用した。(筆者注)

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